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あの日の写真から『月が出ている倉敷市駅』

2010-11-24

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水島臨海鉄道は倉敷市営で水島までのローカル線です。元々は水島の工業地帯からの製品輸送鉄道ですが、市民の足としても活躍しています。当時、国鉄倉敷駅より西へ四百メートルほど離れた場所にぽつんと建っていました。

私が子供の頃(昭和二十四年頃)には、小さな蒸気機関車が牽引して汽笛がピーポーと鳴っていました。そのために沿線の人たちには「ピーポー」の愛称で呼ばれていました。牽引力がなく、倉敷野球場停車場(四十瀬)の近くの坂でとまってしまうこともしばしばありました。それ故、速度がおそく駅の前で飛び乗ったり、また飛び降りたりできました。

昭和四十九年頃になると自家用車やバスにおされ、乗客は少なくなり、時代に取り残されているようでした。それでも朝夕は学生や通勤者があり、その日常を写真にしようと毎日通いました。

この『月が出ている倉敷市駅』の写真は大変苦労しました。夕暮れに月が駅舎の上に出るのは月に二、三回で曇っていても撮影出来ません。冬は日没が早く学生や通勤者は日が暮れて帰ってくるので撮影不能です。春の日が長くなるのを待って夕暮れにあわせて撮影しました。絶好のチャンスでした。使用したカメラはニコンFに三十五ミリレンズです。夕方の撮影だったため、感度はASA四百のフィルムで千六百まで上げました。五百枚ほど撮影しました。

私は「駅」「停車場」という言葉が好きです。そこには出逢いや別れの人生のドラマがあり、希望や哀愁を感じるのは私だけでしょうか。そしてこの写真の時代には「おもむき」があったような気がします。鉄路は確実にどこの街にも村にもつながっている安心感があります。道路だってつながっているのですが、白く光るレールを見ると一層そう見えるから不思議です。

私は十八歳から千秋座通りという倉敷駅前の商店街のカメラ屋に勤めました。当時、カメラは高価な存在で白黒写真が主流でした。接客しながら空き時間を使っては九らしきの風景を撮影し、店裏の現像室で焼いて、手作業で修正する毎日。今とは違い、お金も時間もたくさん費やさねば写真を極めることは出来ませんでした。

被写体は主に美観地区や備中国分寺、駅前の風景や路地、沿線を走る蒸気機関車たちでした。今思えば、白黒写真のための名役者がそろっていた時代だったのかもしれません。そして昭和四十年代後半、経済の高度成長と共に白黒写真はカラー写真へと変わりました。白黒の主役たちもどんどんカラフルに姿を変えていきました。

※価格は予告なしに変更する場合があります。手作りのため、売り切れの際はご容赦下さい。

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